昨夜、「2008年 第4回 ゲオルグ・ショルティ国際指揮者コンクール」のドキュメンタリーを見ました。
栄光を勝ち取るまでの若者たちの姿を収めた作品ですが、結果として、アメリカ育ちの日系人である、シズオ・Z・クワハラさんが優勝し、日本人の母とアメリカ人の父のもとに生まれ、やはりアメリカで育った、ユージーン・ツィガーンさんが第二位でした。
両者共、日本人の血を引きながらも、欧米文化の中で成長した人ですね。
このコンクールで注目を浴びたのが、ウズベキスタンのアジーズさんと、メキシコの女性指揮者でした。
特にアジーズさんは評価が大きく分かれて、結局、女性指揮者は入賞を逃し、アジーズさんは特別賞を受賞しましたが、二人とも、この判定には大いに不満だった模様。
アジーズさんは当時弱冠20歳だったこともあり、2年後の再チャレンジを期待されていましたものの、参加しなかったそう。
明暗を分けたこの2組ですが、ウズベキスタンのアジーズさんと、メキシコの女性指揮者の力量不足だけが、結果に反映していたのかと、ちょっと疑問に思ってしまいました。
私は音楽に詳しくないので、詳しい人が聞いたら力の差が歴然としていたのかもしれませんが、指揮者によって楽曲のムードがかなり変わるのは分かったけれど、どちらも私には面白いというか、よいと思えてしまったのです。
ここで、私が引っかかったのは、各自の背景にある文化の差です。
1・2位の二人は欧米文化の中で育ったわけで、その音楽が体に染みついているのだと思うのです。
それに対して、ウズベキスタンとメキシコ出身の二人は、その土地の音楽や文化が根底にあるわけで。
その差もあるのかなと。
カソリックでも、ヨーロッパとそれと、中南米のそれは、かなり変質していますよね。
中南米のカソリックは土着の宗教が色濃く混ざって成立している。
たぶん、クラシック音楽も、地元の文化の影響を受けているのじゃないのかな。
もし、そうだったとしたら……。
自分の音楽が、欧米人のルールには馴染まなかったのだとしたら……。
稚拙の問題を超えて、それが「俺の、私の音楽だ」というのであれば、欧米のコンクールで認められなくてもいいのではないか、とも。
国際的に活躍するのも素敵だけれど、何より、自分の体内から湧き上がる音を表現することこそが、芸術。
国際コンクールで優勝するために自分の音楽を変えていくことよりも、彼らは、もしかしたら、そちらを選び取ったのかもしれません。